幕末太陽傳(宝塚歌劇雪組公演)を見てきました

2017年5月23日

幕末太陽傳は日本の時代劇映画としても、コメディ映画としても屈指の名作のひとつです。今回は宝塚歌劇雪組公演を見てきたのでいろいろと調べてみました。

幕末太陽傳とは?

映画『幕末太陽傳』は遊郭を舞台にした古典落語をつなぎ合わせ、そこに実際に起こった英国公使館焼き討ち事件を絡めたコメディー時代劇。石原裕次郎を差し置いて主演にフランキー堺を置いたことも話題だったようです。その石原裕次郎は高杉晋作役でした。

品川宿にある飯盛旅籠・相模屋で起こる騒動のほとんどが古典落語がベースとなっています。

 

宝塚版について(ネタバレあり)

宝塚版は雪組公演で、トップスター・早霧せいなと娘役トップ・咲妃みゆの退団公演であり、103期生の初舞台公演でもあります。

映画版との明確な違いは、冒頭のナレーションが現代にアレンジされ、赤線的な臭いが消えていること。最後の佐平次とおそめが旅立つ先でしょうか。

退団公演ということもあり、劇中歌でも退団を意識せざるを得ない歌詞が見受けられます。「居残り家業」を聞いていると、早霧さんの腕と才覚、度胸があれば宝塚を退団しても大丈夫、といった風にも聞こえます。

ところで佐平次は最後にアメリカを目指すことになりますが、まさか早霧さん自身もアメリカに行くということはあるのでしょうか。

そもそも佐平次は胸の病気(たぶん結核)で死ぬのではないかと思っていました。退団公演では死んでしまうことがよくあるそうなので。ですから高杉晋作(次期トップ・望海風斗さん)から「だいぶ悪い咳をしている」と言われた時点で、ああ佐平次は死ぬんだな、と浅はかにも覚悟したものです。

ところが、まだまだ生きる宣言とともにアメリカで居残り家業を続けるそうな。そして一緒に渡米するおそめに至っては、視野を広げて板頭に返り咲く、という視野が広いのか狭いのかよくわからない目標を掲げました。

とにかくみんな生きてて良かったです。

さて、セリフだけで登場する医師・ヘボン先生。彼は幕末に横浜で開業していた実在の医師です。というよりアルファベットのヘボン式でおなじみです。彼の「ヘボン」は「ヘップバーン」とも発音し、かのオードリー・ヘップバーンはヘボン医師の血族にあたります。

そういえば退団する咲妃みゆさんは「ローマの休日」でアン王女を演じてました。こういう発見はなかなかおもしろいです。

相模屋(土蔵相模)について

幕末太陽傳の舞台である相模屋はかつての品川宿に実在した飯盛旅籠(めしもりはたご)です。ナレーションの通り、外壁が土蔵のような海鼠壁(なまこかべ)だったことから「土蔵相模」と呼ばれました。

映画のナレーションでは当時まだ存在した「ホテルさがみ」の映像が流れますが、現在はコンビニが入るマンションとなっています。

北の吉原、南の品川と言われていたそうですが、品川宿の飯盛旅籠は吉原の遊郭とは少し違っていました。ですからそこで働く飯盛女は、宿泊施設の従業員全員を指す言葉で、女郎もいれば配膳係もいます。ですから大工長兵衛の娘・おひさは女郎になる前から飯盛女です。

飯盛旅籠は宿泊施設ですから、長居をする長州藩士がいてもおかしくありません。事実、英国公使館焼き討ちはここに入り浸る高杉晋作らによって企画が練られました。

また起請文の衝突の場での高杉の有名な都々逸をもじったセリフは、落語「三枚起請」のオチでも使われています。この高杉の都々逸は相模屋で作られたと言われています。

佐平次はささいな嘘からおそめの墓を探しに行くことになりますが、これも落語「お見立て」から取られています。

少し疑問に感じたのは、吉原や品川にいる女郎には墓はなかったのではないかということです。おひさやおそめの状況からわかるように、多くは借金から女郎になったケースが多いのに、墓が建てられるはずがなかったからです。おひさが相模屋の息子とでさえ逃げられないのは借金のせいだからで、完済してはじめておそめのように品川から出ることができるのです。

こうしたいわゆる遊郭で女郎のまま亡くなった場合は無縁仏として、専用の寺に葬られることが多かったようです。品川宿の場合は海蔵寺がこれにあたります。吉原では遊女のまま亡くなると、戒名にまで「遊女」や「売女」と入れられたそうです。

英国公使館焼き討ち事件と長州藩士について

劇中で起こる英国公使館焼き討ち事件は、幕末に実際に起こった事件です。犯行グループのリーダーは高杉晋作、サブリーダーは久坂玄瑞で、他にも井上聞太や伊藤俊輔などの若い長州藩士たちが参加しました。

当時は国民総尊王攘夷

幕末の対立構造としてよく見るのが、尊王攘夷や公武合体といったものです。しかしながら、本来の対立構造とは違ったものになっています。

なぜなら、尊王は「天皇を尊ぶ」ことであり、攘夷は「外国を打ち払う」ということ。この概念自体は、幕末の日本人なら誰しも持っているもので、ここに対立するものはないのです。

では、高杉晋作らはなぜ英国公使館を焼いたのかというと、長州藩の方針や幕府の方針が「大攘夷」だったためでしょう。

大攘夷とは、日本が鎖国していた間に欧米との国力の差が広がりすぎたので、一度開国して国力を高めたうえで攘夷を行う、というもの。

一方で高杉晋作らが主張していた、すぐにでも外国を追い払え、というのは「小攘夷」といわれています。

どちらも攘夷はするが手段が違う、というものでした。有名どころでは坂本龍馬が勝海舟に説かれて大攘夷に転換しています。

土蔵相模で計画を練る

史実でも高杉晋作らは土蔵相模に入り浸り、英国公使館焼き討ち計画を練っていました。劇中にもあるように久坂玄瑞は当初計画に反対で、高杉晋作と斬り合う寸前まで対立したそうです。

高杉晋作と久坂玄瑞は、松下村塾の双璧とか四天王と呼ばれるほど優秀でした。他の者もですが、事件当時彼らは22歳。そんな年で飯盛旅籠に入り浸るとは、さすがです。

長州藩士たちのその後

残念ながら高杉晋作は奇兵隊の創設など数々の伝説を残しますが、焼き討ち事件から5年後に27歳で病死します。久坂玄瑞もこのあとの禁門の変で戦死し、共に明治維新を見ることはありませんでした。

焼き討ち事件の参加者で、高杉晋作の舎弟のようだった伊藤俊輔(伊藤博文)は初代内閣総理大臣に。高杉晋作と久坂玄瑞をとりなした井上聞太(井上馨)は内大臣や外務大臣になり、歴史の表舞台に立つことになります。

ちょっと情けない役でしたが、高杉晋作らに利用される来島又兵衛もまた禁門の変で戦死。胸に銃弾を受けた後、自ら槍で喉を突いての最後でした。

終わりに

宝塚歌劇雪組公演「幕末太陽傅/Dramatic“S”!」は宝塚大劇場公演が2017年4月21日〜5月29日。東京宝塚劇場公演が2017年6月16日〜7月23日。宝塚大劇場公演の千秋楽(5月29日)はライブビューイングがあります。サヨナラショーまで見られる予定ですので、ライブビューイングがオススメです。

http://liveviewing.jp/contents/bakumatsutaiyouden/

東京宝塚劇場での早霧せいなラストデー(7月23日)もライブビューイングが決まっています。こちらもどうぞ。

http://liveviewing.jp/contents/yukigumi-2017/
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