超高速関ヶ原は予定通りだったのかもしれない
『真田丸』でのあっという間の超高速関ヶ原には驚きました。
実際にも開戦から5時間程で決着が付き、予想外の早さだったようです。
しかしながら、石田三成は関ヶ原で開戦すると決めたときから短期決戦のつもりだったように思えます。

石田三成のイメージ像
三成は豊臣秀吉の信頼度がとても高い人でした。
ひとたらしだった秀吉の裏で、事務処理を一手に担うイメージですね。
ですから、情に流されず粛々と仕事を行っていたんでしょう。
『真田丸』同様に無駄なことはやらない主義。
だから無駄な殺生も好まない。
できることなら戦いを避けながら解決したいと願っていたはずです。
晩年の秀吉は感情の制御が効かなくなっていったので、三成もさぞ大変だったろうと思います。
官僚としては優秀でしたが、武官ではありません。
武勇だけで重用される人の気持ちはわからなかったかもしれません。
戦国時代に生まれなければ武官との対立はなかったでしょう。
そういう意味では上司、同僚からは理解されにくかったはずです。
それでも豊臣への忠義心は強く、しかも優秀でした。
『真田丸』では真田の献上品を突き返しそうになることもありました。
実際毛利の書物には、似たようなことがあったと記されていて、傲慢だとされる一方、秀吉を思ってのことだともされています。
また関ヶ原の戦いの原因となった唐入りでは、朝鮮半島に取り残されそうになった大軍を、短期間のうちに見事に退却させています。
ここからは効率的で殺生を好まない三成を前提にして、関ヶ原本戦をいかに早く終わらせようとしたかを考えます。
関が原は西軍の巣だった

最近は徳川家康が得意とする野戦に持ち込むために誘い出した、というのはあまり聞きません。
状況を見てもそんな風には見えないからでしょう。
また偶然関ヶ原で開戦したというのも不自然です。
松尾山城を整備していた
三成は松尾山城を整備しています。
関ヶ原が偶然戦場となったのであれば不自然です。
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大谷吉継が事前準備
西軍本隊の着陣の1週間も前から大谷隊は関ヶ原に入り準備をしています。
主に防御柵や土塁を作っていたと思われます。
この土塁が中山道や北国街道を阻むように作られていました。
交通の要衝である関ヶ原を抑えることで、東軍本隊を大坂に近づけないようにしたのでしょう。
早すぎた関ヶ原への移動
関ヶ原での開戦より前、三成は作戦を変えなければなりませんでした。
最初は東軍・福島正則の居城である清州城を奪い、家康を迎え撃つ予定でした。
しかしながら、清州城開城は失敗に終わります。
西軍も桑名城まで到達できずに大垣城に戻りました。
この辺りから関ヶ原での本戦が企画されてきます。
しかしながら9月15日に関ヶ原へ着陣するのは三成の本意ではなかったと思います。
そして、美濃赤坂の東軍本陣に家康が着陣した9月14日。
この日に松尾山城へ突然小早川秀秋が現れ乗っ取ります。
このことを聞いた三成は、小早川を成敗する、として関ヶ原に兵を動かします。
これは明らかに突発的な移動で、家康はこの動きに後から気が付き、慌てて関ヶ原に移動しています。
このことからも三成はこの時点で関ヶ原に移動する予定ではなかったと思われます。
では、いつ移動するつもりだったのでしょうか。
関ヶ原の戦いを効率よく終わらせる方法
三成が大坂に送ったものの結局届かなかった手紙にヒントがあります。
毛利輝元の不出馬は仕方ない、ので裏を取れば出馬してほしいということでしょう。
このことから三成の移動は総大将・毛利輝元の出馬、あわよくば西軍、東軍すべての主君・豊臣秀頼の出馬が確実になってから、だったのではないでしょうか。
毛利輝元が来れば、南宮山の毛利隊、吉川隊は動かざるを得ません。
特に家康と通じていた吉川広家も止める理由がなくなるはずです。
そうなれば成り行きで西軍に付いた長宗我部盛親も、裏切る予定だった小早川も同じです。
特に小早川は松尾山にはいられなくなるか、主家・毛利輝元の指揮下に入るはずですから、勝手な動きはできません。
毛利輝元出馬は豊臣秀頼出馬を意味するようなものです。
毛利輝元が留守の間に東軍勢力に秀頼を奪われる可能性がありますから。
秀頼出馬は話がもっと簡単になります。
東軍は、政治を思うがままにしようとする三成を倒すことが目的です。
つまり豊臣政権下での派閥抗争です。
家康には関ヶ原の戦いの先に天下を奪うことを見据えていたとしても、東軍にいる豊臣恩顧の大名がそうとは限りません。
秀頼の出馬は、東軍からすると主君に弓を引くことになります。
ですから、すべての勢力を戦闘不能にできると言っても良いでしょう。
効率を重視し、被害を最小限にとどめたい三成。
これほどスマートに終われるのであれば理想的でしょう。
まとめ

関ヶ原の戦いを超高速に終わらせることは三成にとっても理想だったのかもしれません。
しかし結果的には超高速でしたが、勝敗と被害状況は三成の思っていたものではありませんでした。
そもそも、秀頼周辺は出馬など認めるはずもありません。
しかも大坂と関ヶ原の間の大津城では東軍に寝返った京極高次が頑張っています。
この状況では出馬はあり得なかったことでしょう。
現実は計画通りにはいかないものです。
それでも小早川が一時は寝返りを悩むほど戦えた西軍を指揮した石田三成はたいした人物だったといえます。