松尾山に総大将を – 治部どの奇妙な戦い

松尾山に小早川が着陣。
この情報を誰よりも驚いたのは石田三成だったかもしれません。
小早川秀秋が松尾山に陣取ったことで、西軍本隊が関ヶ原に移動することになりました。

松尾山に総大将を - 治部どの奇妙な戦い photo by http://sekigaharamap.com/mathuoyama/
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松尾山は城郭

小早川秀秋が陣取った場所は松尾山城という、この辺りでは一番強固な城郭でした。
元々は織田信長と戦った浅井長政の指示で建てられたものだったようです。
廃城となっていたものを、石田三成が決戦に備えて整備、補修させていたものでした。

地形的に見ても関ヶ原を見渡せる場所です。
また麓を走る中山道を封鎖するためにも重要な場所でした。
だからでしょうか、遺構を見てもかなり立派な城郭だったと想像できそうです。

このことから考えても、家康が小早川にしびれを切らして発泡。
これに驚いた小早川が西軍に向かってなだれ込んだ、と考えるのは難しそうです。
おそらく、この家康からの銃撃は小早川への合図だったと見た方が良さそうです。

そしてこの重要な場所にいた小早川が、結果的に勝敗を決定づけています。

小早川は勝手に陣取った

美濃赤坂の東軍本陣に徳川家康が到着したタイミングに合わせるように、小早川秀秋が松尾山城に着陣します。
そもそも小早川が松尾山城に着陣することは三成にとっても寝耳に水。
大坂へ宛てた手紙では、小早川を成敗するために関ヶ原へ行く、とまで書くほどでした。
また先に関ヶ原で合戦の準備を進めていた大谷吉継も、小早川の動きが怪しいと言っています。

ではなぜ小早川は松尾山城へ入ったのでしょうか。
小早川は合戦の前から家康に通じており、この時にも東軍から見張り役を付けられていました。
ですから、小早川の行動は予定通りの動きだったのかもしれません。

関ヶ原の戦いに先立って、西軍は伏見城にいた家康の家臣・鳥居元忠を攻撃しています。
このとき小早川は鳥居に拒否されたため仕方なく西軍として伏見城を攻撃しています。
その後、家康に弁明の使者を送ったり、三成の居城付近で駐屯するなど、不可解な行動を見せます。

小早川は西軍として戦ったのは仕方なく戦った伏見城の攻撃だけだったのです。

総大将を松尾山城へ

小早川が着陣するまで松尾山城に誰もいなかったわけではありません。
すでに三成の名を受けた伊東長門守が警備をしていたそうです。
しかし小早川に追い払われた、といいます。

では三成は強固に整備してまで松尾山城に入城させたかった人物は誰だったのでしょうか。
恐らく、西軍の総大将である毛利輝元。
あわよくば現時点での東軍・西軍すべての主君にあたる豊臣秀頼を入城させようとしていたのではないでしょうか。

増田長盛に宛てた三成の書状にも、松尾の城に中国衆を入れておくべきとしています。
また別の手紙には、毛利輝元が出馬しないのはもっともである、と書いています。
反対に考えると、三成は毛利輝元への出馬要請をしていたということでしょう。

松尾山城に毛利輝元が入れば、南宮山の毛利秀元、吉川広家は動かざるを得ません。
また小早川がすでに入城していたとしても明け渡さざるを得なかったでしょう。

豊臣秀頼が入った場合は、東軍にいる豊臣恩顧の武将だけでなく家康さえも戦う理由を失います。
これこそ短期に、また被害を最小限にとどめて戦いを終わらせる最善の策でした。

これよりあと、大坂の陣では再三の出馬要請にも応じなかった秀頼周辺の事を考えると、豊臣秀頼の出馬は難しかったでしょう。
出馬があるとするなら、確実に西軍が勝てる状況になったときということになるはずです。

では毛利輝元はどうでしょうか。
大坂から関ヶ原への通過点である大津城の京極高次が東軍に寝返り、城が落ちていなかったこと。
主君である豊臣秀頼を置いて自分だけ出馬するか、ということを考えると、やはり毛利輝元の出馬も難しかったでしょう。

舞台は関ヶ原へ

総大将が来ないのであれば、その間だけでも松尾山城には別の誰かを、と三成は考えたかもしれません。
個人的には、関ヶ原に予定された陣がなく、なぜか動かなかった長宗我部盛親。
彼を一旦松尾山城に入れておいて…などと考えたくなります。

ただ、もしそんなことを考えていたとしても、小早川の着陣で全ての構想が崩れます。
小早川の松尾山城への着陣は、家康へのいい手土産になったと思われます。
が、示し合わせた行動でもなかったようです。

なにしろ西軍が関ヶ原に移動したことに対して、東軍は後手に回っているわけです。
ここから考えても、家康は三成を関ヶ原に誘いだした、という説が違っているということになります。

三成としては小早川の着陣や、総大将の不出馬など、想定が崩されていく状況でした。
にもかかわらず家康と互角に渡り合っていたのです。
家康は勝つべくして勝った、というわけではありませんでした。

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