うっかり者?三国志演義を書いた羅貫中のミス
三国志演義は歴史小説なので、フィクションが入り混じっています。三国志演義があまりにも有名なため、史実と思われている部分もあります。巧みに創作した羅貫中でしたが、これはミスではないのか、と思われる部分も見受けられます。

第1話 なぜ劉焉なのか
三国志演義の第一話は、黄巾賊討伐のための義勇軍を募集するところから始まります。
劉備らは幽州で義勇軍を集めた太守(刺史の誤り)・劉焉の傘下に加わります。劉焉に目通りした劉備は自分の出自を語ると、劉焉は喜んで自分の甥とします。
これは史実にはない話で、そもそも劉焉が幽州刺史だった記録も調べた限りでは見当たりません。ではなぜここで劉焉が登場したのか。この後の物語の流れから羅貫中が劉焉を登場させた理由が想像できます。
正史によると、もともと劉焉は黄巾の乱前後に漢帝国に見切りをつけていました。そこで刺史に軍事権を与える「州牧」という役職の新設を提案します。当初交州(南の果てのような場所)に引きこもりたかったようですが、政府から言い渡されたのは益州牧でした。益州に落ち着いた劉焉は、すぐ北に独自の宗教勢力を張る張魯と仲良くなります。
一方で中央政府には「すぐ北の張魯が道をふさいでいて連絡手段がない」と主張し、政府が送り込んできた使者・劉璋(劉焉の子)を中央に返さず、半ば独立。劉璋は劉焉の後継者となりました。
羅貫中の劉備の描き方は人徳あふれる人物像ですから、当然同族である劉氏からは厚遇されます。すでに書いたように劉焉は劉備を甥にし、劉虞は黄巾賊討伐の功績を作って罪をかばい、献帝・劉協からは正式に血筋を認められ「皇叔」という呼び名まで与えられます。そして劉表に厚遇され半ば後継ぎのような扱いを受けます。
そして劉備は益州で蜀漢を起こしますが、益州には同族であり劉焉の子・劉璋がいます。劉焉の甥である劉備が従兄弟にあたる劉璋を攻撃することになってしまいました。第一話での劉焉の好意をここで一気に裏切るエピソードにしてしまうことになります。
そうなるとやはり第一話で劉焉を出したこと自体が疑問となってきます。正史三国志の著者・陳寿は独立を志向した劉焉を大いに批判していますが、これを受け入れて劉焉を出さずに済ますことはできなかったのでしょうか。
第4話 曹操の迷走
三国志演義の第4話で曹操は董卓の暗殺に失敗し故郷へ逃げ帰り再起を図ろうとします。当然ながら曹操を捕えるための手配書が各地に配られ、曹操が立ち寄った中牟県で捕らえられてしまいます。曹操は「皇甫」と名乗り逃げようとしますが、県令の陳宮は牢屋へ叩き込みます。しかし、曹操の志を知った陳宮は曹操とともに逃げることを決意。県令の役職を棄てて曹操の逃亡を助けます。
三日して成皐にさしかかったときに曹操は自分の父と義兄弟という呂伯奢のもとを訪ねます。ここで事件は起きます。
曹操をもてなそうとする呂伯奢の使用人の発言から、呂伯奢が自分たちを殺そうとしていると誤解し、2人は使用人たちを殺してしまいます。過ちを知った2人は逃げ出しますが、酒を買って帰る呂伯奢に遭遇。曹操は自分たちの罪がバレるのを恐れて呂伯奢までも殺してしまいます。
「自分は天下の人に背いても、天下の人に背かれるのは我慢できない」。そう言う曹操に、陳宮は助けたことを後悔するのでした。
さて、この話はフィクションなのですが、明らかにおかしな部分があります。曹操が迷走しているのです。
上の地図をご覧いただいて、青が洛陽、今回の出発点です。そして赤が曹操の故郷である沛国譙県、今回の目的地です。途中の紫が中牟県、曹操が陳宮に捕らえられたところで、黒が成皐、呂伯奢一家を皆殺しにしたところです。
これを見てわかる通り、曹操は洛陽から中牟県まで来たのに、わざわざ3日もかけて戻っていることになります。
このあとにもこういうことが起こるのですが、作者である羅貫中は中国北部の地理についてはあまり詳しくなかったようです。