忍城の水攻めは石田三成発案ではなかった!?
小説や映画にもなった忍城の戦い。
先日の大河ドラマ「真田丸」では、水攻めを提案する石田三成に呆れ返る上杉、真田一同が話題になりました。
さて、結果的には成功せず、最後まで落城しなかった忍城の水攻めは果たして石田三成が考案したものだったのでしょうか。

まず「真田丸」では、上杉・真田がなかなか落とせない忍城に、石田三成が援軍として到着します。
しかしながら、史実では逆。
総大将は石田三成で、援軍として大谷吉継や真田昌幸・信繁などが加わっています。
豊臣秀吉の小田原攻めは、小田原城を包囲する一方で北条方の支城を落とす二方面作戦でした。
豊臣秀吉の出陣に伴って、北条方は小田原城に主だった勢力を集めました。
このため小田原城は強化されましたが、一方で支城が弱体化し小田原城の包囲を許してしまう結果となりました。
支城の攻撃には小田原城包囲に参加していない、多数の大名が動員されています。
「真田丸」でおなじみの上杉景勝、真田昌幸、そして石田三成も支城攻撃に加わっています。
先に書いた通り、もともと忍城攻撃の総大将は石田三成でした。
よく言われる説では、攻めあぐねた石田三成が周辺の地形を見て備中高松城と似ていることから水攻めを決定。
度々堰が破壊されるなどして水攻めは機能せず、結果的に小田原城が開城されてなお降伏しませんでした。
これが石田三成の戦い下手の代名詞ともなるわけです。
しかし、浅野長政に宛てた石田三成の手紙にはこうあります。
「忍城攻めの準備は順調に進んでいるが、みんな水攻めすることになって、その準備ばかりで進んで戦おうとしない」
と愚痴っています。
そして豊臣秀吉は浅野長政に対して、とにかく忍城は水攻めにするのだという書状を書いているそうです。
なるほど、秀吉の意向なら諸将も従うしかないし、同じく石田三成も水攻めをするしかなかったのでしょう。
ただし、忍城の戦いは決して水攻め失敗で終わっているわけではありません。
石田三成は忍城の北条方が降伏する前に総攻撃をかけ、石田勢も豊臣方の援軍も損害を被って撤退しています。
こと水攻めに関しては、最近では行われる途中段階で小田原城が開城。
直後に忍城内でも開城するかどうかの軍議。
条件面でのこじれがあったものの小田原城開城から7日で忍城開城。
という具合で、水攻めの実行自体が怪しくなっています。
もちろん考案者も石田三成ではなく、豊臣秀吉だった可能性があるのです。
忘れがちですが、「真田丸」でも秀吉考案の可能性を示唆しています。
ストレスという敵とも戦う石田三成は上杉景勝、直江兼続、真田昌幸・信幸にたいして、
「殿下(豊臣秀吉)の意向である」。
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