倭について時系列順にまとめる – 三国志から読み解く倭国と邪馬台国と卑弥呼
前回は倭人と倭、倭国、邪馬台国のポジションについてでした。
今回は時系列順に漢書、後漢書、三国志に書かれていることをまとめます。

漢書地理志
漢書地理志では「倭人あり」となっており、続けて「歳時に挨拶に来る」とあります。
しかし具体的な国名はなく、倭人が来ていることしかわかりません。
また「百余国」も実際に百余国あったかどうかは定かではなく、単にいっぱいあるよというものではないでしょうか。
後漢書東夷伝
後漢書は、時系列では次の年代の三国志よりも完成が遅いために、三国志を参照している箇所がかなりあります。
そんな中でも重要なのがはっきりと国名が出てくるところです。
「倭の奴国」に金印(漢委奴国王印)と綬(印に結びつける紐)を与えるというもの。
そして「倭国王帥升」の登場、です。
奴国の朝貢と印綬が与えられたのは西暦57年。
この頃は奴国が交易の窓口となっていたことがわかります。
その50年後には、倭国王が登場することから、この間に倭には倭国ができたことになります。
三国志にも奴国が登場することからも、倭国が奴国も含む連合国家であることが伺えます。
三国志演義(※)の序盤にも少しだけ登場する後漢の桓帝、霊帝の在位期に倭国が大いに乱れたとあります。
西暦146年から189年頃にかけて、王位をかけたものなのかはわからないが、混乱状態だったようです。
※「三国志演義」は正史三国志をベースにした小説で、歴史書ではない。
三国志 魏書
「その国(倭国?)」は男子が王となって7、80年続き、「倭国乱れ」とあります。
また、伊都国は代々「女王国」の支配を受けてきた、とあります。
後漢書とあわせて考えると、やはり連合国家「倭国」は二世紀頃にはできていたようです。
さて、代々男子が王となってきた倭国でしたが、上記の内乱が起こります。
そこで卑弥呼を共同して王とします。
内乱が治まった後、239年に卑弥呼は「親魏倭王」となります。
魏が正式に倭国王として認めたわけです。
翌240年、魏から返礼の使者が来て卑弥呼と会見します。
卑弥呼は邪馬台国から動かない王だったため、この時に魏の使者は邪馬台国に行ったことになります。
邪馬台国までの行程が記されているのは、この時の行程からと思われます。
このあと243年には魏書の初出となる、倭王が魏に使者を出す記述が出てきます(この時は俾弥呼として記述)。
245年には倭の大夫(役職名)である難升米と都市(これも恐らく役職名)の牛利が魏へと送られています。
このときには黄幢を与えられており、魏からの厚遇ぶりが見て取れます。
そして247年には倭国と狗奴国との対立が激化し、倭国は魏に助けを求め、魏も使者を派遣しています。
そこで再び黄幢と檄文を与えます。
魏が両国に和解するように送られたものなので、狗奴国との対立は倭国が不利だったのではないでしょうか。
その後の翌248年、卑弥呼が亡くなります。
死因はわかりません。
その後、男の王を立てるも混乱が起こり千人もの人がなくなっています。
そこで諸国は再び女王・壱与(台与)を擁立して混乱を収めます。
まとめ
- 本格的に倭国について記述があるのは漢書から。
- 後漢書は漢書と三国志をベースにしているが、金印の件など倭から倭国の流れが読み取れる。
- 三国志では、邪馬台国までの行程や外交に関して他2つに比べてかなり詳しい。
- 魏は倭国王に「親魏倭王」を与えるなどかなり厚遇している。
次回もお楽しみに。