なぜ親魏倭王なのか – 三国志から読み解く倭国と邪馬台国と卑弥呼

2016年4月20日

前回は倭国と邪馬台国の場所に迫りました。

しかしながら、肝心の倭国が親魏倭王という身に余る厚遇だったのかまでは考えられていません。
今回は倭国の位置関係や情勢から考えてみます。

なぜ親魏倭王なのか – 三国志から読み解く倭国と邪馬台国と卑弥呼 photo by city of Nara
なぜ親魏倭王なのか – 三国志から読み解く倭国と邪馬台国と卑弥呼 photo by city of Nara

漢民族は異民族に敏感

中国の歴史を見ていくと、漢民族は昔から外からの脅威に対抗しなければならなかったことがわかります。
万里の長城は異民族の侵入を阻むために秦の頃から作られたもの。
元がモンゴル人の国家だったように、国土が占領されてしまうこともしばしばでした。

後漢から三国時代は、異民族の勢力が比較的衰えている頃でした。
それでも度々侵入があったようです。
三国志演義では諸葛亮の南征が有名ですね。
しかも三国時代は漢民族同士が正当性を争っていました。
ですから、外からの攻撃は出来る限り避けたかったはずです。

公孫淵の反乱

倭国と魏の往来ができるようになったきっかけが公孫淵の反乱が鎮圧されたことがあります。
後漢末から朝鮮半島北部は公孫度の支配下にありました。
辺境であったことから半独立となっていましたが、子の公孫康の時には曹操(後漢)に恭順しました。
この公孫康は帯方郡を設置し、朝鮮半島と倭を支配下に置きました。

しかしその後、公孫淵の支配になった際には再び独立を画策。
呉と共謀し魏に反発、その後燕王を名乗るまでになったため、魏の司馬懿によって制圧されました。

公孫氏が台頭している期間、倭を含む朝鮮半島についての記載が滞っています。
このことから、倭からの使者を公孫氏が遮っていた可能性もあるようです。

警戒する魏

公孫淵の件もあり、魏は警戒心を高めたことでしょう。
距離感を考えれば失敗は当然でしたが、公孫淵は呉と共謀した時期がありました。
朝鮮半島よりも呉に近い倭国が呉と連携されるのは厄介です。
何しろ倭国は呉のすぐ東にある(と考えられていた)わけですから。

魏としては過剰な優遇だったとしても、憂いを断っておくのが安心だったのでしょう。
何しろ倭国には親魏倭王の称号を与えるだけで満足してくれるのですから。
北と東の憂いがなくなったので、呉を警戒しつつ侵攻を続ける蜀に集中できます。

親魏倭王を有効活用できたか

親魏倭王を与えられた卑弥呼は、魏の後ろ盾を得ました。
このことは倭国内はもとより、対立する狗奴国に対する牽制にもなったことでしょう。

親魏倭王を与えられて9年。
狗奴国との対立が激化する中、卑弥呼は死去。
倭国の王として、壱与(台与)が即位します。

しかし卑弥呼が死去したとされる249年。
中国では司馬懿のクーデターが起こり、実質的には傀儡になっています。
親魏倭王の称号は卑弥呼個人に与えられたかどうかによりますが、壱与に引き継がれているかどうかは記述には残されていません。

卑弥呼よりあとに倭国王と認められるのは宋の時代、倭讃(倭は姓、履中天皇か?)まで待つことになります。
もっともこの頃になると、ヤマト王権が成立しており、自ら王を名乗るようになっていますが。

まとめ

  • 魏に限らず漢民族は古くから異民族の侵入に敏感だった
  • 倭国を含む東夷は公孫氏の滅亡で魏への朝貢を再開できた
  • 魏は過剰な待遇をしてでも呉や蜀との対応に専念したかった
  • 卑弥呼は魏を後ろ盾として倭の支配を狙った

次回は卑弥呼本人についてです。

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