董卓と敵対したのは誰だった? 三国志演義第6話
劉備らの活躍で呂布を退け、勢いに乗った反董卓の諸侯だったが、汜水関と虎牢関で足止めされていた。

董卓は陣営を立て直すために洛陽から長安へ都を移すことにした。
後を追った曹操は、李儒の策にはまり大敗。命からがら逃げかえった。そのころ炎上した洛陽に一番乗りした孫堅は、宮殿の井戸の中で長年行方がわからなくなっていた伝国の玉璽を発見する。この伝国の玉璽は秦の時代から皇室に伝わる宝だった。
孫堅は伝国の玉璽の発見を隠したまま、天下を狙うために故郷の江東へ帰ってしまった。これに激怒した反董卓の盟主・袁紹は、孫堅が故郷に帰れないように帰り道の途中に兵を置く劉表に孫堅を討つように命じるのだった。
一方、大敗した曹操は袁紹らを前に進軍しないことを非難し、それぞれが野心を持っていると考え故郷へ帰ってしまった。反董卓の連合軍はほとんどこれといった成果もないまま内部分裂を起こし、故郷や領地に帰ってしまった。
孫堅は帰り道で劉表に邪魔され、因縁が生まれるのだった。
主な登場人物
・曹操
長安へ都を移した董卓を追撃したが、李儒の策にはまり呂布、李傕、郭汜、徐栄らの攻撃に大敗。袁紹らが開いた宴会の席で、連合軍が戦わないことを恨み故郷へ帰った。
・孫堅
董卓撤退後の洛陽に一番乗りし、宮殿の井戸から行方がわからなくなっていた伝国の玉璽を発見し持ち去る。その後、病気を理由に故郷に帰る途中劉表に邪魔される。
・董卓
孫堅を味方に引き入れようとするが失敗に終わり、李儒の助言で都を洛陽から長安へ移す。このとき、費用を得るために財産を取り上げたり、後続の墓を暴いたりした。移動の最中にも遅れがちの民を殺し、犯し、略奪を許したため泣き叫ぶ声が天地を揺るがしたという。
・公孫瓚
曹操が連合軍から離脱したあと、袁紹の無能さに呆れて劉備、関羽、張飛らと自分の領地へ帰り、野望のために軍備を整え始めた。
・袁紹
孫堅が伝国の玉璽を持ち去ろうとしたことを指摘したが逃げられ、曹操には進軍しないことをののしられ、連合軍をまともに統率できず、諸将がバラバラになったため自分も領地に戻った。
・李儒
董卓の軍師にして補佐役。長安への遷都も略奪も李儒の考え。また曹操を大破したのも李儒の策だった。
董卓と戦ったのは誰だったのか
まず、打倒董卓を掲げて集まった諸将は「三国志演義」では全部で18人いるとされています。それは、袁術、韓馥、孔伷、劉岱、王匡、張邈、喬瑁、袁遺、鮑信、孔融、張超、陶謙、馬騰、公孫瓚、張楊、孫堅、袁紹、そして檄文を発した曹操です。しかし、この中で確実に参加していない人物が2人います。
馬騰はのちに蜀の五虎将軍の一人となる馬超の父で、西涼の太守となっています。このとき馬騰は明確に意思は示していなかったと思われますが、董卓打倒の連合軍には加わっていません。なぜなら三国志演義では董卓VSその他大勢という構図にされていますが、実際には関東VS関西という構図になっていたからです。
中国では昔から函谷関を境に関東と関西に分かれていました。優秀な政治家や書生は関東、武勇に優れた将は関西から生まれることが多く、それぞれにアイデンティティがありました。ですから馬騰は関東の諸将で構成された連合軍に加わっていないのです。
また公孫瓚はこのとき袁紹や韓馥がいる冀州のすぐ北にある幽州で、冀州攻略を虎視眈々と狙っていました。このあとには袁紹と対立する袁術と同盟を結び、またこれに対抗した袁紹は、袁術の隣の州にいた劉表と同盟関係にありました。公孫瓚は連合軍に参加しないどころか、連合軍に参加すると言いながら韓馥を背後から攻撃するなど、北部で独自の動きを取っていました。
ではなぜこの2人が連合軍に参加していたことになっているのかというと、劉備の存在のせいだと考えられます。馬騰の場合は子の馬超が蜀に仕えることになりますし、公孫瓚は劉備と同門。しかも公孫瓚が連れてこなければ劉備は連合軍に加えられなかったでしょう。
ここまでは参加していない2人でしたが、参加したにもかかわらず名前がない人物もいます。
「三国志演義」では伝国の玉璽を持ち帰ろうとする孫堅を、袁紹の命令で劉表が足止めしています。劉表はこのとき突然登場したように見えますが、実際には反董卓の連合軍として出陣していました。18人の諸将の中に加えられていないのは謎です。
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