毛利秀元は動かない – 治部どの奇妙な戦い

2016年7月4日

毛利秀元は動かない、そう判断したからこそ徳川家康は南宮山の麓を通り、桃配山に本陣を構えたのです。
関ヶ原の戦いにおける重要なポジションにいたはずの毛利秀元はなぜ南宮山にいたのか、を考えます。
タイトルはもちろんあの有名マンガのオマージュです。

関ヶ原で開戦した時点での南宮山周辺の配置
関ヶ原で開戦した時点での南宮山周辺の配置

毛利秀元、南宮山に行く

天下分け目の関ヶ原。
まずは南宮山周辺から見ていきます。

石田三成は用意周到な男だったので、関ヶ原で戦うための準備を進めていました。
盟友の大谷吉継は開戦よりかなり早い段階で陣取っていました。
また、石田三成自身が陣取る笹尾山の整備も進めていました。

遡ること数日。まだ徳川家康が美濃赤坂に本陣を構え、石田三成が大垣城にいた9月7日。
西軍総大将の毛利輝元の名代として、毛利秀元が南宮山に入ります。
安国寺恵瓊と東軍と密かに通じていた吉川広家は南宮山麓の南宮大社付近に。
長宗我部盛親、長束正家は栗原山の麓に陣取りました。

南宮山は大垣城を攻撃する東軍を挟撃できる位置
南宮山は大垣城を攻撃する東軍を挟撃できる位置

南宮山からは美濃赤坂も大垣城も見渡せ、どちらの動きもわかる格好の場所と言えます。

石田三成、動く

そして9月14日の22時頃、石田三成が動きます。
中山道を進んで関が原に行くと目立ちすぎます。
そこで南宮山や栗原山の南、牧田道を進軍します。
関ヶ原の着陣したのは15日の1時頃でした。

西軍の動きを察知した東軍・徳川家康も15日の2時頃、後を追うように東海道を西進します。
しかし、徳川家康は西軍の動きに気づくのが遅れ、後手を踏むことになります。
この時、少なくとも南宮山に陣取る毛利らは大チャンスだったはずですが徳川家康本隊を見逃します。
なぜでしょうか。

実は、9月14日は美濃赤坂の東軍本陣に、徳川家康が到着した日でした。
そしてこの日のうちに、南宮山麓に陣取る吉川広家とすでに松尾山に陣取る小早川秀秋に使者を送っています。
吉川広家にはもちろん毛利隊が動かないように念押しをしています。

これで大垣城をじっくり攻められる、と思った矢先に石田三成が動いたとの情報が入ったわけです。
そして後手に回りながらも中山道を南宮山の麓を通過し、桃配山に本陣を敷きました。

寺社仏閣への攻撃はルール違反

毛利秀元が陣取ったのは南宮山ですが、南宮大社から1時間ほど山を登ったところにあります。
南宮大社は平安時代に美濃国一宮として親しまれています。
その敷地内でもあるので、南宮山というのですね。
ちなみに南宮大社のURLにも反映されています。

そんな南宮山に陣取った毛利秀元は、豊臣秀吉の唐入りで朝鮮半島に渡っています。
ですから、臆病だったわけでも経験不足だったわけでもありません。
ここに陣取らせたのは吉川広家。
徳川家康と通じていた吉川広家は、動きが取れないように南宮山に閉じ込めたといえます。

また東軍からみたときには南宮山に陣取る毛利秀元は攻撃対象外となります。
なぜなら当時、寺社仏閣に攻撃を仕掛けることはルール違反とされていました。
しかも寺社仏閣の敷地内でしかも容易に攻撃を仕掛けることも仕掛けられることもできないのです。
つまりこういう場所に陣取る隊は戦意がないと言われても仕方がない。

これには石田三成も苦言を呈しています。
神社を背にして陣取った宇喜多秀家とは覚悟が違うといった具合です。

当の毛利秀元がどのように考えていたかはわかりません。
しかしこの場所に陣取った時点で、すでに戦意がなかったと思われても仕方がなかったのです。
開戦後には、池田輝政を含む南宮山に向けられた兵力も関ヶ原へと投入されます。
徳川家康には南宮山周辺は動かないという確信があったのでしょう。

関が原は全く見えない

一説によると、関ヶ原の狼煙の合図で徳川家康本陣に殺到するという算段だったそうです。
しかし、これも実際の地形を見るとかなり難しいことがわかります。

大垣市街から見た南宮山と関ヶ原の位置関係
大垣市街から見た南宮山と関ヶ原の位置関係

南宮山の南、石田三成が関ヶ原に向かった牧田道から関ヶ原方面を見てみます。
すると毛利秀元の陣からもさらに高い南宮山の本峰があり、全く見えないことがわかります。

牧田道から山を迂回して関ヶ原へ向かう
牧田道から山を迂回して関ヶ原へ向かう

しかも山麓から1時間も登らなければならないとなると、殺到するのはかなり困難です。

まとめ

  • 南宮山は西軍の大垣城と東軍の赤坂本陣を望むには絶好の場所
  • この場所に陣取った時点で戦意がないと思われていた
  • 関ヶ原は全く見えず情報収集にも攻撃するにも難しい場所だった

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