長宗我部盛親は動かない – 治部どの奇妙な戦い

2016年7月19日

動かないのは南宮山の毛利秀元だけではありませんでした。
その隣の栗原山に陣取る長宗我部盛親も同様に動きませんでした。

長宗我部盛親は動かない - 治部どの奇妙な戦い
長宗我部盛親は動かない - 治部どの奇妙な戦い

長宗我部、栗原山へ行く

毛利秀元が南宮山へ入るとときを同じくして、栗原山に長宗我部盛親も着陣します。

長宗我部盛親は動かない - 治部どの奇妙な戦い
長宗我部盛親は動かない - 治部どの奇妙な戦い

栗原山は南宮山と同様に徳川家康がいる東軍本陣、石田三成がいる西軍本陣ともに見ることができます。
そして、西軍本陣が攻められた際には東軍の背後を突ける場所でもあります。

石田三成、関ヶ原へ

9月14日の22時頃、石田三成が密かに大垣城を出て関ヶ原へ向かいます。
このとき東軍の裏をかいて、中山道ではなく牧田道から関ヶ原へ向かいました。
そこで栗原山に陣取るの長宗我部隊の明かりを目印にして行動したといいます。

現在でも夜はかなり暗いですが、街灯はありました。
しかし、当時は街灯などもちろんないので、真っ暗だったことでしょう。
栗原山は程よい位置にあり、目印に最適でした。

この時の西軍の行動にひとつの謎があります。

長宗我部は動かない

石田三成はこのとき栗原山の麓を通って牧田道から関ヶ原へ向かっています。
にもかかわらず、長宗我部盛親は全く動いていません。
石田三成が伝えていなかったはずはないと思いますが、最後尾に付くわけでもなく栗原山から動かないのです。

南宮山の毛利秀元は、麓の吉川広家が徳川家康の意向で動かなかったことから動けません。
しかし、栗原山の長宗我部盛親はむしろ自由に動ける立場にありました。
連絡がうまくいかなかったのか、そもそも関ヶ原に長宗我部隊の陣がなかったのかはわかりません。

ただ、この西軍の移動についていかなかったことで、長宗我部隊は全く戦うことなく敗戦を迎えるのです。
この敗戦のあと、長宗我部盛親は領地を失ってしまいます。
そして身ひとつで大坂冬の陣で再び徳川家康と対峙します。

それなら関ヶ原でもっと頑張ればよかったのに、と思うかもしれません。
しかしそれはあとの歴史を知っているから言えること。
当時はどちらが勝つかで自分も家もどうなるかわからず、壮絶な生き残り合戦だったのです。

栗原山は攻撃できない

石田三成の要請に応えられなかったのではなく、応えるつもりがなかった可能性も否定できません。
徳川家康にしても、南宮山の毛利秀元や栗原山の長宗我部盛親をほとんど無視しています。
これは毛利秀元と同様に、長宗我部盛親にも戦う意思がないと判断したからではないでしょうか。

では、長宗我部盛親が着陣した栗原山はどういう場所だったのか。

現在この場所は「栗原九十九坊跡」という史跡になっています。
奈良時代から鎌倉時代にかけて、100以上の僧坊が営まれていたそうです。
僧坊とは、寺院内のお坊さんや尼さんが生活する宿舎のこと。

当時の慣例として、寺院を攻撃することはルール違反。
ということは長宗我部盛親が栗原山の布陣した時点で、戦意がないとみなされても仕方がなかったのです。
長宗我部盛親は聖域に逃げ込んで、何があっても動かない、ということだったのかもしれません。

関ヶ原は全く見えない

南宮山と同じように、関ヶ原からの狼煙で兵を動かすことになっていたそうです。
しかしそんなことはほとんど不可能です。
それについては南宮山にいた毛利秀元のエントリーでどうぞ。

https://pecorino-h.net/sekigahara-war/

まとめ

  • 長宗我部盛親が陣取った栗原山は西軍の移動の際には目印になった
  • 長宗我部隊は西軍移動の際にも一切動かなかった
  • 栗原山は聖域でここに布陣した時点で戦う気がなかった可能性がある

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