騎馬軍団?鉄砲隊?NHKがこだわる長篠の戦いを考える

2015年8月10日

先日NHKのBSで、大歴史実験と称して戦国時代の鉄砲隊と騎馬軍団の戦いを特集していました。
番組の宣伝を見た時から、いまだにこんなことをしているのか、と思っていましたが、NHKは長篠の戦いをどのように考えているのでしょうか。

Photo by (財)犬山城白帝文庫
Photo by (財)犬山城白帝文庫

騎馬軍団はどのように戦った?

武田の騎馬軍団は戦国最強、という話は今も昔も変わりませんが、その昔(僕が子供だった頃)に比べるとずいぶんと様変わりしているようです。
ただやっぱり大河ドラマの影響なのか、馬=サラブレッドであり、鎧武者がサラブレッドに乗って、さながら馬術競技のように戦場を走り回る姿を想像してしまいます。

ちょっと検索してみると、当時の日本にはポニーのような小型の馬しかおらず、主に移動と輸送用だったことはすぐにわかります。
そして宣教師ルイス・フロイスさんの日記だか手紙だかには、「馬で戦場に向かい、到着したら馬から降りて徒歩で戦う」といったことが書かれています。
いくら武田の騎馬軍団が有名だからといって、武田だけがサラブレッドを飼っていて鎧武者でも疲労しない馬だったわけではないでしょう。
多少鍛えられた馬だったにしても、鎧武者を背負って戦場を走り回るのは不可能に近いので、ルイス・フロイスさんの記述通りでしょう。

となると、武田の騎馬軍団というのは機動性が高く統率が取れている、神出鬼没のような存在だったのかな、と想像できます。
ただ、いざ戦い、となると馬を降りて徒歩で戦ったんですから騎馬武者が突っ込んでくることはないわけです。
実際にポニーが鎧武者を乗せて走っているのを想像すると、失笑してしまうかもしれませんね。

信長の鉄砲隊は奇抜な発想?

長篠の戦いにおける大量の火縄銃を使用した戦術が、これ以降の戦いを大きく変えたとされています。
具体的な数字としては約3000丁の火縄銃を集結させたそうですが、この数字も資料によって違うので、すぐに信用できるものではありません。
ただし、かなりの数の火縄銃を使用したのは間違いありません。

問題は、長篠の戦いが大量の火縄銃を使用した初めての戦い、と思われていることなのかもしれません。
火縄銃を大量に保持していた集団のひとつに紀州の雑賀衆がいます。
彼らは根来衆に続いて火縄銃をいち早く取り入れ、かなりの量を保持しています。

石山合戦では、その戦術を物量作戦で織田信長を相当苦戦させ、信長自身も負傷しています。
最終的に雑賀衆と信長は和睦を結んでおり、織田軍が勝ったといえる状況だったかは疑問です。

これを見ると、長篠以前にも大量に火縄銃を動員した記録があり、しかも信長自身がそれにやられたという結果です。
雑賀衆の戦術は主にゲリラ戦ではなかったかと思われます。
長篠の戦いでの鉄砲隊は、特別奇抜なものではなく、目に見える形で火縄銃が大量投入された最初の事例だっただけのようです。

鉄砲隊の戦術は?

最近は三段撃ちが現実的ではなかったことがいわれるようになってきていますが、なぜ現実的ではないかを考えてみます。

まず、最初に考えるのは各部隊の数と配置。
例えば鉄砲隊は全体で1000だったとして、それは織田信長直属軍ではありません。
羽柴隊何人、丹羽隊何人、佐々隊何人……、という具合でした。

問題になるのは三段撃ちを行ったとして、各部隊が持つ鉄砲隊が全員同じ動きをしなければならないということ。
例えばこうなります。
一列目が撃ち、右側から後ろに回ります。
そして前にいる二人が同じように撃つまでの間に、弾込め、火縄に点火、そしてまた撃つ番がやってきて撃つ。

この一連の動きを列ごとにシンクロしながらやらなければなりません。
右に回るところを左に回ると大混乱です。
それどころか、点火が遅れて射撃のタイミングが遅くなってもいけないわけです。

運動会の練習ではあるまいし、事前に申し送りがあったとしても、そうそう同じ動きなんてできるはずがありません。
ましてや別のクラスどころか、別の武将の配下の部隊と息が合う方が奇跡です。

奇跡的に実現できたとして、次の問題が出てきます。
1000人をどの程度の塊に分けたかはわかりませんが、5列15人を一組としても火縄銃を操る幅を考えると、5列で15mほどになるのではないでしょうか。

そこに武田軍が一列か、もしくは人間3人分ほどの幅で突撃してきたとします。
おそらく5列のうちの左右の端は誰もいないところに向けて撃ち続けることになる可能性が高いです。
火縄銃はまだまだ貴重な兵器。
そんなところでムダ弾を消費していいはずはありません。

武田の大損害は本当か

信玄から仕える重臣が撤退を進言したのに、勝頼が決戦を決意した理由やら無謀な作戦を続けたかどうかはここでの問題ではありません。
一番の失敗は、通説の通り1万もの犠牲者を出していたとすると、まさにその事自体が失敗でした。

当時、兵農分離されていなかったため、平常時は農業をしていた者たちが有事の際には兵士として出兵していました。
つまり、ここで兵を失うということは農業従事者を失うことになり、国全体が食い扶持に困る事態に発展しかねないのです。
秋の収穫の時期には戦わないという暗黙の了解、というかそれが当たり前だったくらいです。

武田が1万もの犠牲者を出したのであれば、この後の政治的影響どころか武田の内部崩壊が心配です。
この時代は犠牲者を出して勝ち続ける大将より、犠牲者は少ないが負けてくれる大将の方が、仕える方は安心だったはずです。

ただこの後も武田は存続しており、北条氏や上杉氏を始め、関東の諸族とも外交関係を持つなど、方針の変更を図っています。
このことからもそれなりの被害はあったものの、通説でいわれるほどの大損害ではなかったのではないかということです。

実際にはどのような戦いだったのか

長篠(設楽原)は平原ではなく、丘陵が連なる土地でした。
織田は、あらかじめ簡易的な砦と柵を設けて武田を待っていたのは間違いないので、織田は狙い撃ちできる場所に陣取ることができました。
しかも柵を設けることで、武田の機動力を削ぐことができたはずです。

兵を繰り出すごとに犠牲者が出たような記述もあるので、柵めがけて攻めてきた武田軍をまず鉄砲で狙い撃ちします。
次の射撃までの間、柵を突破されないように槍などで迎え撃ちつつ準備できた隊から射撃に入る、を繰り返していたのではないでしょうか。
もちろん横一列の柵ではなく、武田を狙い撃ちできる場所にいくつかあれば十分です。

武田としては柵があることを知らなかったわけではないでしょう。
議論の中に「当日は霧が出ていて、前に何があるかわからなかった」ということも言われます。
一般的に前に何があるかわからないのに突撃を繰り返すということは考えられません。
また織田軍としても前から何が来ているかもわからないのに、鉄砲を撃ちまくるほど資源が豊富でもありません。

まとめ

織田信長が画期的だったのは、今までゲリラ戦法で個人の能力で効果を発揮してきた火縄銃を、組織的に活用したからでしょう。
目立った活躍がなかったものを表舞台に引っ張り出してきたような感じでしょうか。
確かにこの戦いを境に火縄銃が戦術ではなく、戦略全体における活用方法が変わったいるので、そこが画期的だったのでしょう。

 

片岡愛之助の解明!歴史捜査(3月5日更新)

長篠の戦いについての番組があり、視聴した結果なかなかおもしろかったので、まとめておきます。

三段撃ちについて

上記の鉄砲隊の戦術部分において、三段撃ちはかなり難しいと思われていました。
3人が入れ替わり撃ち続ける、従来型のスタイル以外にも三段撃ちが検討されており、興味深かったです。

一方で、やはりというべきでしょうか。
約2キロに鉄砲隊をずらりと並べて撃ち続ける戦法を取ったとされていました。
確かに織田方はこのとき日本では一番資源を確保できる環境にありました。
番組内でも武田方に比べて、弾薬が豊富にあったことが紹介されていました。

しかしそれでも、無人の荒野に無駄玉を撃ち続けるほどではなかったと考えられます。
それにそんなことを続けていれば後でどんな目に合っていたか。

騎馬軍団について

これは僕も知らなかったのですが、当時の宣教師は西日本での活動が主だったそうです。
ですから、「騎馬から降りて戦う」という記述は西日本の大名に限られたことだった可能性があるようです。
紹介されていた江戸時代の文献では、東日本は騎馬のまま戦うという表現もありました。

また信濃には木曽馬という種類の馬がいて、騎馬のままでも十分に戦えたことも紹介されていました。
木曽馬はサラブレッドよりも小さいものの、ポニーより足回りがしっかりしていて小回りも利く優れた馬でした。

これによって「武田の騎馬軍団が存在しなかった」とはいえない状況になりました。

武田方の大損害は?

番組では鉄砲の連射のタイミングよりも、騎馬軍団の突撃の方が速く織田方に到達することになります。
しかし、設楽が原という場所と天候に大きく影響したことになっている。

戦いの前夜に雨が降り、地面が相当ぬかるんでいた。
そこに武田方が突撃したために、比較的まともに走れたあぜ道を走らざるを得ない。
織田方は柵をたくみに利用し、あぜ道に集中砲火を浴びせたために、武田方を寄せ付けなかったそうです。

三段撃ちをしていたのかは別として、これでは確かに武田方が不利です。
ではなぜ、この状況で武田方は突撃を繰り返し、1万という大損害を出したのでしょうか。

番組内では「場中の功名」が原因、としていました。
要するに、困難な状況でも功名を挙げようとする武士としてのプライドが武田方の大損害につながった。
そう結論付けています。

一部にそういう精神があり、突撃を繰り返した部隊があったかもしれません。
しかし、それを8時間にもわたって繰り返していたのであれば、それは指揮官の無能さをあらわすエピソードになってしまいます。

武田信玄の考え方として有名な「人は城、人は石垣、人は堀…」。
これが浸透していたはずの武田方が、プライドで部下を無駄死にさせるようなことはないはずです。

やはりこの1万という大損害は、勝った側からの誇大表現に思えてなりません。
この後のことも考えると、織田というより徳川が、そういう誇大表現で歴史を変えていてもおかしくないでしょう。

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